記憶

甥っ子がお泊まり保育に行ってきた。

大泣きして別れたけど、涼しい顔をして帰ってきたと、仕事中に姉からメールが来た。

 

わたしもお泊まり保育に行ったなぁと思いながらパソコンに向かっていると、その頃の記憶が驚くほどの鮮度を持って浮かび上がってきた。

暑さで氷が溶け、味が薄くなったミックスジュース。ふにゃふにゃになった紙コップ。ぬるいスイカ。プールを見学の友だち。青と白と黄色の縞々のプラスチックのベンチ。お昼寝のタオルケット。キャンプファイヤーの舞い上がる灰。ラジオ体操の朝の光。

 

 

最近、昔のことをよく思い出す。

それ今しか出来へんねんで、と過去の自分にいらぬお節介を焼きたい気もするけれど、そんな記憶をたくさん残してくれてありがとう、という気持ちの方が大きい。

何十年も経っているのに、質感まで細かに再現される記憶。
こんな風にふとした拍子に蓋が開けられる日を、過去の自分は楽しみに待ってくれているのかもしれない。

 f:id:iixviiiv:20160722220614j:image

不定期連載 さゆみんとわたし 第16回 「レインボーピンク」

7月13日は道重さんの27回目のお誕生日でした。

 

わたしはいつも通り会社へ行き、地味な寄り道をして帰宅し、夜ご飯食べ、Twitterのタイムラインを眺めて過ごしました。

いつもと違うのは「#道重さゆみ生誕祭」というタグがあることで、そこでは、たくさんの方が道重さんの誕生日を祝い、思いを綴っていました。

それらを集めると国ひとつの電力まかなえるんじゃないかと思うほどのエネルギー。さゆ力発電。語呂が悪い...。 

 

前に、道重さんの卒業がわたしにくれたものは、真っ白な画用紙のようなものだと考えていました。

これから何でも好きに描いてもいいよ、と。

でも、描きたいものは何も思い浮かばなくて、空白を持て余すような日々を過ごしてきました。

2014年をずっと生きている、前に進めない自分を不甲斐なく思いながら。

 

去年に引き続き、わたしは道重さんに手紙を書きました。
f:id:iixviiiv:20160714010456j:image
夢中で絵を描いていると、いつの間にか手段が目的にすり変わり、ただただ楽しかった。
こんなに一生懸命絵を描いたのはひさしぶりでした。上手かどうかは別として、自分では納得のいく仕上がりにできました。自画自賛です。
ファンは推しに似るらしいので、わたしもたまに自惚れるくらいはしょうがないかなと思います。

 

たいてい何か思い浮かんでも、なかなか実行に移せない性質ですが、道重さんのこととなるとムクムクと力が湧いてくるから不思議です。
初めてのヲタTや、推しジャンや、遠征や。
これを「道重力」と名付けました、今。語呂...。

 

その道重力で絵を描き終え、手元を見ると、そこにはたくさんのピンクがありました。

道重さんに出会うまではほとんど減らなかった色。

 

f:id:iixviiiv:20160714012302j:image

 

道重さんのくれたものは、画用紙だけじゃなかったと、やっと気がつきました。

 

道重さんと、道重さんを好きな変な人たちのおかげで、わたしは今まで知らなかったたくさんの「好き」という色に出会いました。

それは、わたしの「好き」の幅を広げ、深みを与えてくれました。

 

これからはこの色鉛筆と道重力を使って、画用紙をはみ出すぐらい大きく、大きく、好きな絵を描いていきたいと、そう思いました。

 

また来年も、自画自賛できますように。

キョンキョン

新神戸オリエンタル劇場へ、舞台『日の本一の大悪党』を観に行ってきました。

 

f:id:iixviiiv:20160703213353j:image

「 なんてったってアイドル」のリリース年に生まれたわたしがキョンキョンに関心を持ちはじめたのは、讀賣新聞の書評がきっかけでした。

自分の経験を交えた、書評というより随筆に近い文章は、あの伝説のアイドル・小泉今日子が自分に向かって秘密を打ち明けてくれているような不思議な近さがあり、毎週日曜日の朝刊を開いてはキョンキョンの名前があるか無いかで一喜一憂していました。

 

そこから音楽活動もたどっていくと、まるで日本の音楽史を見ているような、そうそうたる顔ぶれ。

なかでも細野晴臣さんの作曲された「連れてってファンタァジェン」を初めて聴いたときは、宝物を見つけた感動を覚えました。

リアルタイムで好きだったのは小林武史さん作曲の「My Sweet Home」で、その歌詞をキョンキョン自身が書いたこと、「大好きな背中」は亡くなったお父さんのことなんだということを知ってから改めて聴いて号泣し、哀しみをも包みこむ強い優しさはどこから生まれるのか、キョンキョンのことをもっと知りたいと思うようになりました。

音楽については、まだまだ知らないことが多くて語れるほどになっていませんが、アルバムの歌詞カードを開くたび「え、この人も!?」という驚きが毎回あり、ジャンルや世代関係なく一緒に仕事をしたいと思わせる何かがキョンキョンにはあるんだろうなぁと思います。

 

本などで変遷を知っていくうち、小泉今日子はパンクだと思うようになりました。

既成概念、自分自身、何を壊そうとしているのかは分からないけど。めちゃくちゃかっこいい。

 

80s 小泉今日子 紅白.flv - YouTubewww.youtube.com

 

ワントゥスリーフォッ!

 

あまちゃんの紅白もめちゃくちゃカッコよかったなぁ。ほんとは出たくなかったけど宮本信子さんが出るなら自分が出ない訳にいかないって逸話もヤンキーっぽくて。

 

いつになったら、お芝居の話になるのか。

そう、それでそのキョンキョンが神戸に来る、しかもそれは初の自身によるプロデュース作ということでこれは行くしかない!と張り切ってチケットを申し込みました。軽い気持ちで日曜の千秋楽に。第一希望の一階席は外れたけど、ご用意できました。姉たちに即報告。(ちなみに、わたしもキョンキョンも三女。やっぱなぁ〜と謎の優越感。これもあとで知ったけど、我が家にCDラジカセが来たとき初めて買ってもらったのが忘れもしない8cmの『あなたに会えてよかった』だったと姉が教えてくれました。)

 

それで、お芝居の話。

会場は安田顕さんのファンと思わしき女性の方がたくさんいました。人気なんですね。

その演技を観終えてから、こりゃ人気だわ、と大いに合点がいきました。

殺陣のシーンかっこよかった。あんなバッサバッサと人が斬られていくの、大好きな健さんの任侠映画を観てるようで。でもすごく哀しくて。

キョンキョンは小さかった。みんな小さいっていうけどほんとだった。

実際に見るまでは、小泉今日子!バーン!という存在感を放ってるのかなと勝手に想像をしていたけど、まず作りたいものがあって、自分はその一部でしか無いんだと全体のバランスに応じて大きくなったり、小さくなったりできる人なんだという気がしました。

あ、徹子の部屋で言ってた、見かけによらず案外力持ちってエピソードもすごくよかった!テレビ持ち上げられるって言う話を徹子さんずっと覚えてるって。

 

その強さも、奥ゆかしさも、色気も、若さも、弱さも、ぜんぶが喧嘩せずあの小さいキョンキョンの中に集っていて。猫が居心地がよさそうに家に懐くみたいに。

 

話があちこちに行きますが、お芝居おもしろいなと思いました。今まで難しくてよく分からないという印象があったけど。

同時進行で二つの場面が展開していったり、という小説や映画では物理的に出来ないことができたり、受け手が見たいところを選べる自由さや、それが一度しかない儚さや。

 

カーテンコールは出てこいや感があまり好きじゃ無いけど、受ける側は嬉しいんかな。

そのあとみんながフルネームを言ってから感想を言う流れで「小泉です。」って言うところ、らしすぎて。なんかうれしかった。

最後どうまとめていいか分からず照れくさそうに「またねっ」て小走りに舞台袖へはけていくところも。

そこでやっと、そうだよ!これがキョンキョンだよ!!と思えた。

 

ほんとに、またの機会あるといいな。

次は小泉今日子という人を観に行くというより、新たな挑戦を見届けさせてもらう思いで。

 

帰りに、気になっていた元町高架下へ行ってみたり、ジュンク堂で迷った挙句、今まで読んでみたことのない戯曲集を買ってみた。わたしにとっての小さな挑戦。

 

あんなかっこいい先輩が先を歩いてくれてることへ、感謝と尊敬を込めて。

 

不定期連載 さゆみんとわたし 第15回 「感謝(驚)」

今日もちびまる子ちゃんを観ていると、道重さんのことを思い出しました。

お姉ちゃんがいて、おじいちゃんがいて、そういった家族の話や、子ども時代のエピソードを、道重さんもラジオやコンサートなどでたくさん聞かせてくれました。
 
当たり前の日常が、もっとも当たり前ではないこと。
温かい家庭に生まれ育ったことや、早くに芸能界という世界に身を置いていたことから、道重さんはそういった日常のかけがえの無さをよく理解し、だからこそ大事にしたいと思っていたのかもしれません。
 
そんな、いちばん大事な思い出のつまった場所を、道重さんは自らファンの人たちに紹介してくれました。(わたしはエアー参加です...)

f:id:iixviiiv:20160529215438j:plain

それがどれほどすごいことかということに、時が経つほど気づかされます。
家族のように深い信頼と愛情をもって、道重さんはファンみんなを大事にしてくれました。
そしてその気持ちはいまも続いていると、そんな気がします。(そのぐらいの思い込みは、大目に見てもらえたらなと思います...。)
 
たくさん大事にしてくれた分、たくさん大事にされる今でありますように。
道重さゆみという一人の女の子の生き方に、驚きと感謝を込めて。

不定期連載 さゆみんとわたし 第14回 「シャボン玉は弾けない」

思い立って、部屋に飾ってあった『シャバダバ ドゥ〜』のポスターを外してみると、予想に反して妙に落ち着いた気持ちになりました。

 
道重さんへの思いが、今もゆるぎなく自分のなかにあるということを確認できた気がして。
何もない壁さえ、道重さんのいない空白を表しているようで愛おしく思えてきます。
 
そこでふと気がつきました。
わたしが好きなのは道重さんそのものではなく、道重さんのことを考えているときの自分の気持ちなんだと。
宇部だってそう。宇部そのものが好きなんじゃなく、宇部について考えているときに、自分の心に浮かび上がる感情が好きなんだと。
 
他にも好きな人やものをどんどん思い浮かべると、かわいい、楽しい、うれしい、といった感情がどんどん生まれ、そういうことか!とストンと腑に落ちました。
なぜ道重さんを好きなのかという答えが見つからなかったのは、ずっと見当違いな場所をさがしていたら。答えは外ではなく、内側にあったのです。
 
世の中には言葉という型があり、人は言葉を覚え始めるとともに、ぐにゃぐにゃとした感情をその型へ当てはめていくようになります。正体が分からないものも、知っている形にすれば安心できます。
「好き」という言葉もそう。あぁこれは好きだな、と使いなれた型へ入れてしまうと、大抵それ以上の意味は考えなくなってしまいます。
けれど、道重さんに対する「好き」は、わたしの持っている型には収まりきらないものでした。
なので、わたしは型を外し、そのぐにゃぐにゃと直接向き合うようになりました。
 
シャボン玉はパチンと弾けて無くなるけれど、それを好きな気持ちは無くならない。
なぜなら、好きなのはシャボン玉そのものではなく、シャボン玉を吹くことや、そこに映る景色を見て生まれる感情だから。
 
ぐにゃぐにゃの正体は今も分かりません。
けれど、そこに向き合うこと自体を、わたしは好きなんだと思います。
 
 
 
 
 
f:id:iixviiiv:20160523075152j:image

あかりんに初めて会った日のこと

阪急電車に乗って兵庫県立芸術文化センターへ。今日は、あかりんを観にいく日。

今年は足かけ4年でももクロに会え、こうしてあかりんにも。不思議な年だ。

観劇の経験は片手で足りるほどで、開演まで落ち着かずキョロキョロとしてしまう。
案外女性が多い。子ども連れもちらほら。みんな誰を目当てに来たのか全くわからない。
買ったパンフレットを読んでいる人が多い。
どさっと渡されるフライヤーの束や。
舞台上には、こじんまりとした小さな岩山がいくつも置かれている。


コントラバスの音が小さく聞こえ、それが開演の合図だということに時間差で気づく。
男性が一人横切り、そのあとに白い服を着た人が続く。それがあかりんだった。


裸足に見え、双眼鏡で足元を見ると、トウシューズのような色の靴を履いていた。危ないもんね。

ねじれた階段を登り、天を見上げ父と話すあかりん。神の娘。
髪、舞台のために切ったんかな。ウェーブのかかったショートヘア。よく似合ってる。丸みを帯びた輪郭。紛れもない早見あかり


正直、わたしは舞台に苦手意識があって、どう観ていいかよく分からない。
表現がオーバーで感情移入できないし、持っていかれた大道具の行方が気になったり、その世界に慣れるまでにとても時間がかかる。数を見ていけば慣れるものなんだろうか。

 f:id:iixviiiv:20160515234930j:image

ただあかりんを観にきたヲタでしかないけど、見終わるころにはあかりんを早見あかりではなく、神の娘アグネスと思えていたので、こんな感じで良かったのかなと少し胸を撫で下ろす。
なんだかんだ言って、少し泣いてしまった。

これでもか、これでもか、というほどに人間の憐れさを説き続けた末、その泥の中からとてもきれいな花が咲いた。

しかし、人間嫌いになりそう。
小さい子見にきてたけど大丈夫だったんだろうか、と余計な心配をしてしまう。
 
神の子らしく無垢で天真爛漫なアグネスが、人間界に染まってだんだんと意地悪さが出てくるのを見ているのは心が痛かった。(人間界に降りてからは、青いショールを羽織っている。)
ただ座ってウンウンと人の悩みにまんまるな目を見開いて耳を傾けていたころがなつかしい。
結局、天へと還るけど。

目の前で繰り広げられる人の憐れさのすべては、自分のものでもあって。
だからってどうすればいいのか。 

それが人間だ、と開き直ることしかできないけど「善良な市民」の顔をしてのうのうと暮らしているよりは、歪んで、ねじれて、それでも夢を見たりするような、どうしようもなく矛盾を抱えながら生きていく方がよっぽど人間らしい。

アグネスはしあわせだったのかな、と思い、別にどうでもいいや、と思いなおす。
生きるってそんなきれいごとじゃなくていい。
最後笑ってたし。
何より、あんな美しい花が咲いたし。


拍手をしながら、こうして直接賞賛を伝えられるってなんてステキなんだろうと思う。
前の方でサイリウムを振っている人が見えたり、あかりー!という野太い声も聞こえる。
みんなあかりんにたくさんもらってきたんだろうな。

入り口に、ファンの方からと思われる花があり、「祝   早見あかり様   幸せでありますように」という言葉が書かれていた。
短い中に、凝縮された思いが感じとれてグッときた。
駅へ向かう道、さりげなくエビ中のりななんのジャージを着ている人が前を歩いていた。


感想というほどのものでもないけど、早見あかりに初めて会った日として、今日のことを記録しておきたかった。


f:id:iixviiiv:20160516002313j:image

森山開次さんことも書いておかないと。
舞台上であかりんと同じくらい、人間離れしていた。ふり乱れる金髪。無駄のない肉体。声もすてきだった。

Healing Music


f:id:iixviiiv:20160512215417j:image

CD屋さんに見当たらず、とりあえずiTunesで購入。

Ensemble Dal Nienteとは、シカゴ拠点のコンテンポラリー・クラシカル・アンサンブル。Deerhoofとは以前にも共演している。

らしい。

詳しいことは何も分からない。
このアルバムの良さをどう表現していいかも。
いくつか言葉を並べてみても、すぐに濃い霧の中へ消えていってしまう。

ただ、その中にいるあいだじゅう、ものすごく心地よい。

水気を多く含んだ、明るい朝もや。
もしくは、冷たく怪しく光る夜霧。

森深くにひっそりとある、誰もいない湖。

音に身を浸すと、気持ちがほぐれていく。

安っぽくて使いたくないけど、ヒーリングミュージックと呼ぶのがいちばん似つかわしいように思う。

傷がゆっくりと癒されていく、不思議な湖。

恐竜も棲んでいそう。

いちばん最後、おまけ的に収録されているDeerhoofメドレーも楽しい。


いつかもっと先の未来で、同じようにこの森に迷い込んでくる人がいるといいな。
ジャンルも時代も超えて聴かれていってほしい。


Ensemble Dal Niente & Deerhoof「Balter - Saunier」