不定期連載 さゆみんとわたし 第15回 「感謝(驚)」

今日もちびまる子ちゃんを観ていると、道重さんのことを思い出しました。

お姉ちゃんがいて、おじいちゃんがいて、そういった家族の話や、子ども時代のエピソードを、道重さんもラジオやコンサートなどでたくさん聞かせてくれました。
 
当たり前の日常が、もっとも当たり前ではないこと。
温かい家庭に生まれ育ったことや、早くに芸能界という世界に身を置いていたことから、道重さんはそういった日常のかけがえの無さをよく理解し、だからこそ大事にしたいと思っていたのかもしれません。
 
そんな、いちばん大事な思い出のつまった場所を、道重さんは自らファンの人たちに紹介してくれました。(わたしはエアー参加です...)

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それがどれほどすごいことかということに、時が経つほど気づかされます。
家族のように深い信頼と愛情をもって、道重さんはファンみんなを大事にしてくれました。
そしてその気持ちはいまも続いていると、そんな気がします。(そのぐらいの思い込みは、大目に見てもらえたらなと思います...。)
 
たくさん大事にしてくれた分、たくさん大事にされる今でありますように。
道重さゆみという一人の女の子の生き方に、驚きと感謝を込めて。

不定期連載 さゆみんとわたし 第14回 「シャボン玉は弾けない」

思い立って、部屋に飾ってあった『シャバダバ ドゥ〜』のポスターを外してみると、予想に反して妙に落ち着いた気持ちになりました。

 
道重さんへの思いが、今もゆるぎなく自分のなかにあるということを確認できた気がして。
何もない壁さえ、道重さんのいない空白を表しているようで愛おしく思えてきます。
 
そこでふと気がつきました。
わたしが好きなのは道重さんそのものではなく、道重さんのことを考えているときの自分の気持ちなんだと。
宇部だってそう。宇部そのものが好きなんじゃなく、宇部について考えているときに、自分の心に浮かび上がる感情が好きなんだと。
 
他にも好きな人やものをどんどん思い浮かべると、かわいい、楽しい、うれしい、といった感情がどんどん生まれ、そういうことか!とストンと腑に落ちました。
なぜ道重さんを好きなのかという答えが見つからなかったのは、ずっと見当違いな場所をさがしていたら。答えは外ではなく、内側にあったのです。
 
世の中には言葉という型があり、人は言葉を覚え始めるとともに、ぐにゃぐにゃとした感情をその型へ当てはめていくようになります。正体が分からないものも、知っている形にすれば安心できます。
「好き」という言葉もそう。あぁこれは好きだな、と使いなれた型へ入れてしまうと、大抵それ以上の意味は考えなくなってしまいます。
けれど、道重さんに対する「好き」は、わたしの持っている型には収まりきらないものでした。
なので、わたしは型を外し、そのぐにゃぐにゃと直接向き合うようになりました。
 
シャボン玉はパチンと弾けて無くなるけれど、それを好きな気持ちは無くならない。
なぜなら、好きなのはシャボン玉そのものではなく、シャボン玉を吹くことや、そこに映る景色を見て生まれる感情だから。
 
ぐにゃぐにゃの正体は今も分かりません。
けれど、そこに向き合うこと自体を、わたしは好きなんだと思います。
 
 
 
 
 
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あかりんに初めて会った日のこと

阪急電車に乗って兵庫県立芸術文化センターへ。今日は、あかりんを観にいく日。

今年は足かけ4年でももクロに会え、こうしてあかりんにも。不思議な年だ。

観劇の経験は片手で足りるほどで、開演まで落ち着かずキョロキョロとしてしまう。
案外女性が多い。子ども連れもちらほら。みんな誰を目当てに来たのか全くわからない。
買ったパンフレットを読んでいる人が多い。
どさっと渡されるフライヤーの束や。
舞台上には、こじんまりとした小さな岩山がいくつも置かれている。


コントラバスの音が小さく聞こえ、それが開演の合図だということに時間差で気づく。
男性が一人横切り、そのあとに白い服を着た人が続く。それがあかりんだった。


裸足に見え、双眼鏡で足元を見ると、トウシューズのような色の靴を履いていた。危ないもんね。

ねじれた階段を登り、天を見上げ父と話すあかりん。神の娘。
髪、舞台のために切ったんかな。ウェーブのかかったショートヘア。よく似合ってる。丸みを帯びた輪郭。紛れもない早見あかり


正直、わたしは舞台に苦手意識があって、どう観ていいかよく分からない。
表現がオーバーで感情移入できないし、持っていかれた大道具の行方が気になったり、その世界に慣れるまでにとても時間がかかる。数を見ていけば慣れるものなんだろうか。

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ただあかりんを観にきたヲタでしかないけど、見終わるころにはあかりんを早見あかりではなく、神の娘アグネスと思えていたので、こんな感じで良かったのかなと少し胸を撫で下ろす。
なんだかんだ言って、少し泣いてしまった。

これでもか、これでもか、というほどに人間の憐れさを説き続けた末、その泥の中からとてもきれいな花が咲いた。

しかし、人間嫌いになりそう。
小さい子見にきてたけど大丈夫だったんだろうか、と余計な心配をしてしまう。
 
神の子らしく無垢で天真爛漫なアグネスが、人間界に染まってだんだんと意地悪さが出てくるのを見ているのは心が痛かった。(人間界に降りてからは、青いショールを羽織っている。)
ただ座ってウンウンと人の悩みにまんまるな目を見開いて耳を傾けていたころがなつかしい。
結局、天へと還るけど。

目の前で繰り広げられる人の憐れさのすべては、自分のものでもあって。
だからってどうすればいいのか。 

それが人間だ、と開き直ることしかできないけど「善良な市民」の顔をしてのうのうと暮らしているよりは、歪んで、ねじれて、それでも夢を見たりするような、どうしようもなく矛盾を抱えながら生きていく方がよっぽど人間らしい。

アグネスはしあわせだったのかな、と思い、別にどうでもいいや、と思いなおす。
生きるってそんなきれいごとじゃなくていい。
最後笑ってたし。
何より、あんな美しい花が咲いたし。


拍手をしながら、こうして直接賞賛を伝えられるってなんてステキなんだろうと思う。
前の方でサイリウムを振っている人が見えたり、あかりー!という野太い声も聞こえる。
みんなあかりんにたくさんもらってきたんだろうな。

入り口に、ファンの方からと思われる花があり、「祝   早見あかり様   幸せでありますように」という言葉が書かれていた。
短い中に、凝縮された思いが感じとれてグッときた。
駅へ向かう道、さりげなくエビ中のりななんのジャージを着ている人が前を歩いていた。


感想というほどのものでもないけど、早見あかりに初めて会った日として、今日のことを記録しておきたかった。


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森山開次さんことも書いておかないと。
舞台上であかりんと同じくらい、人間離れしていた。ふり乱れる金髪。無駄のない肉体。声もすてきだった。

Healing Music


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CD屋さんに見当たらず、とりあえずiTunesで購入。

Ensemble Dal Nienteとは、シカゴ拠点のコンテンポラリー・クラシカル・アンサンブル。Deerhoofとは以前にも共演している。

らしい。

詳しいことは何も分からない。
このアルバムの良さをどう表現していいかも。
いくつか言葉を並べてみても、すぐに濃い霧の中へ消えていってしまう。

ただ、その中にいるあいだじゅう、ものすごく心地よい。

水気を多く含んだ、明るい朝もや。
もしくは、冷たく怪しく光る夜霧。

森深くにひっそりとある、誰もいない湖。

音に身を浸すと、気持ちがほぐれていく。

安っぽくて使いたくないけど、ヒーリングミュージックと呼ぶのがいちばん似つかわしいように思う。

傷がゆっくりと癒されていく、不思議な湖。

恐竜も棲んでいそう。

いちばん最後、おまけ的に収録されているDeerhoofメドレーも楽しい。


いつかもっと先の未来で、同じようにこの森に迷い込んでくる人がいるといいな。
ジャンルも時代も超えて聴かれていってほしい。


Ensemble Dal Niente & Deerhoof「Balter - Saunier」





幸福論'16

今日は会社帰りにおもしろそうな本を2冊買いました。こうして「好きな本を好きに買える」ということが働く理由でもいいのかと、ふと思いました。
というのも、今年中に会社辞めることをモチベーションとしてきた今日このごろ、働くことで得られるものがどれほどあるかについて、ろくに考えていませんでした。

「生活すること」と「働くこと」の中間にあるのはブラックボックスみたいなもので、その中身は大して問題ではないのかもしれません。


原因→結果→目的
  ↑                    ↓
目的←結果←原因

循環する1方向の矢印をイメージしていたものが、ほんとうは

      原因
   /      \
結果 ー 目的

こんなふうにそれぞれが独立した、思った以上にフレキシブルなものなのかも。

どれが先に来てもいい。

ここで、思い出すのは亀井さんの言葉。
「幸せになりたい幸せになりたいってずっと思ってると 
幸せになりたいってだけで終わっちゃうんです 

幸せだなぁって思ってるとずっと幸せのまま過ぎていくんです」

(亀井絵里ちゃんの小咄って面白かったよね : ハロプロキャンバス http://helloprocanvas.ldblog.jp/archives/21699421.html )

この言葉について「どんなに不幸せでも、幸せだと思い込むべし」というネガティヴな捉え方をしていたけど、もっとスコーン!と突き抜けるポジティブさを、えりりんは言わんとしているのではないか、と思いました。

とにかく「幸せだなぁ」という結果をまず立ててしまえば、そこに原因が追いついて、新しい目的が生まれる。

わたしはこの方程式を反対に使っていました。
「なんとなくかなしい」という漠然とした結果を元手に、なぜなら...と原因をいくつもコレクションして。これでは、ひ弱な目的しか育たなくて当たり前。





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結果を立ててしまえば、そこに原因は自ずとついてくるんですね。

というのが、現段階の幸福論です。


はじめに

道重さんに憧れてはじめたアメブロが続けられなかったので、シンプルそうなこちらに引っ越しました。挫折です。

SNSをいろいろしていると気が散漫してしまって、もっと分断されずに、まとまった考えを持てるようになりたいと思いました。

わたしはどうも好きなものに出会うと、それを言葉にしたい欲求が湧いてしまうので、そういったものをここにプールしていきたいと思います。

うさぎをめぐる冒険の先に、何が待っているのか。
とにかく冒険をつづけること!
再び道が重なるその日まで......。

不定期連載 さゆみんとわたし 第13回「おしえてこうはい!」

気が付くと道重さんと一緒に過ごせた日々と、それからの日々とが同じくらいの長さになろうとしていて、それは愛のビッグバンド(ロングバージョン)とツェッペリンのNo Quarterとが全く同じ演奏時間であるということと似ている。女子かしまし物語とIron Man、ザ☆ピ~ス!とSpace Oddityでもいい。

どちらがどうというのではなくて、同じだけの空間をどう埋めるかの違い。真っ白な画用紙に絵を描くように。道重さんの卒業がわたしにくれたものは、その画用紙なのだろうと思う。

何でも自由に描いていい。けれど、わたしには描きたいものがなかなか見つからない。

 

そんな毎日の中で、はじめて見えてきたこともあった。

わたしは人に何かを教えたり指示したりということが昔から苦手で、同じ壁に最近ぶち当たっている。

昨年入社した後輩社員の教育。

嫌われたくない。自信がない。学生の頃とまるで変わりのない自分を諦めてしまいそうになるたび、道重さんの言葉が励ましに来てくれた。それまでは感じ得なかった、真実味を引き連れて。

「後輩に注意をすることもあるんですけど、帰りのあいさつは、必ず後輩の顔を見て"バイバイ"って言うようにしてます。なんかモヤモヤしたまま家に帰るのはお互いイヤだと思うから。気持ちの切り替えも大事。」

「まず自分がちゃんとすること。自分ができてなければ人にとやかく言うことなんかできないんだから、まずは個々が自分の問題を解決する方が先。そうすれば結局は全体の問題も解決すると思っています。」

「後輩の魅力を引き出して周りにアピールしていけば、グループ全体のプラスになると思うんです。後輩との時間をつくって、得意分野を探してあげてください。」

「一度でわからないなら、何度でも言えばいいんです。ちゃんと説明してすれば、必ず分かってくれるときが来る。」

「先輩っていう立場だから後輩には聞きづらかったし、後輩も先輩に教えるってやりづらいんじゃないかと思ったんですね。でも自分だけのことを考えてたらできてなくてもいいかもしれないけど、グループのことを考えるとできてないとダメだなと思って、ダンスのうまい鞘師に教えてもらいに行ったんです。そしたら鞘師も何ごともなく、「あ、ここはこうですよ」って教えてくれて(笑)そういう関係性がすごくいいなと思って。」

素直にそう言えること。そこに至るまでの道のり。

「おしえてこうはい!」という言葉の尊さを、やっと理解できた。

こういった、ものごとを前より少しは理解できるだけの経験が、白紙の毎日の中にも蓄積されていたということなのだろうか。

道重さんがくれたものは、お日さまのように今日も降り注いでいる。

わたしはその光を見たくて、何も描かないままでいるかもしれない。

 

(2016/2/16)