さゆみんとわたしと東京

4年前の横浜アリーナ。これを超えるものは、後にも先にも無いだろうと思ってきた。再生公演も宿命公演も素晴らしいものだったけど、横アリとはまた別物だった。今日目にしたステージは、それを超えてしまった。

 

「東京」に何の縁もゆかりも無いわたしにとって、この都市の思い出といえばさゆみんにまつわるものばかりだ。

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今回は前のりをして、荻窪、中野、上野を訪れた。いつかこれらの土地に思いを馳せるとき、そこには今日のさゆみんのシルエットが必ずやセットで映し出されることと思う。

曲によって幼かったり大人っぽかったり、目まぐるしく変幻するさゆみんを見ていると、ここがどこなのか、わたしは何をする人なのか、どういう時代を生きているのか、そういった一切の感覚を失う瞬間がある。ステージにこれまでの歳月を投影し、過去と現在とがごちゃまぜになったわたしは、何が何だか分からないまま気がつけばぐしゃぐしゃに泣いていて、声を出さないようにするのが精一杯だった。のぼせた顔に吹き付ける秋風が心地よかったことを、またこの季節が来た時に思い出せたらいいなとライトアップされた東京駅を見ながら思った。

さゆみんを見ていると心から安心できる。世の中のうつくしいものを全部集めると、きっとこういう形になるんだろうなと本気で思ってしまう位すばらしい空間があって、それをわたしと同じように好ましく思っている人たちがたくさんいて。だからこの世界は大丈夫だと、信じるに値するものなんだ、と一つずつ確かめるように。そして、わたしもその大丈夫な世界の一部でありたいと、図々しくも思ってしまう。

 

人は孤独であり、その寄せ集めでできている都市もきっとまた孤独である。お互いの孤独を差し出すことによってこの「東京」は形成されているのだろうか。新幹線の車窓を飛び去る普通の明かりの一つ一つが、いつもより儚げで切実に見えた。

 

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