平成最後の夏に思ったこと

極めてマイペースに朝ドラ『カーネーション』の再放送を見ている。平日16時台という枠は国会中継、大相撲、甲子園やらで心安く番組編成が変わり、録画を貯めに貯めている私は新聞のテレビ欄を見ては小さくガッツポーズをとる。長編映画のインターミッションのような途中休憩。

今回視聴が滞ってしまったのは、小林薫演じる糸子の父・善作に自分の父を重ねてしまったからだ。善作の容態が思わしくない場面と並行して、父も入院をすることになった。慌ただしいという時間的な理由と、善作のいないそれからの日々を見たくないという精神的な理由とで、しばらく見られないでいた。幸い父は退院でき、生活も少しずつ安定してきたので、今日何週間ぶりかに続きを再生した。まとめ見て、長い戦争が終わった。

「また」や「いつか」に何の保証もないことはどの時代も変わらないけれど、そのささやかで切実な約束が不可抗力によって容易に刈り取られてしまうのが戦争だ。そこへ向かわないようにするために何が出来るのかを考えた時、例えば席を譲るとか、エレベーターの開ボタンを押すとか、店員さんに丁寧に接するとか、挨拶をちゃんとするとか、そういった小さな祈りを生活の中で捧げていくことなら出来るかもしれないと思った。常にその思いが根底にありさえすれば、言動を伝って届いていくだろう。絵を描いたり、文章を書くこともそう。その力を逆に利用されてしまったのが、転向だった。

もし自分の掲げる「反戦」「平和」が集団になびく形のものだとしたら、それがあの時代には「進め一億火の玉だ」だったとしても何ら不思議ではない。考えにくいけれど。今年亡くなられた絵本作家のかこさとしさんが満身の力を注いで伝えようとされてこられたのも、そういうことだと思う。自分の頭で考えられる力をつけていくこと。

 

...ということをカーネーションを見て思ったので、忘れないよう書き残しておこうという私的なブログでした。最後まで読んでくださり、ありがとうございました。

 

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ラブアンドピース。